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天領の看板『倉敷美観地区』と裏通り、阿智神社へ
平成23年3月5日(土)
『倉敷』と云えば、あまり滞在時間がない場合、いわゆる『美観地区』に誘われてしまいがちです。そこは、早春には梅の花が、桜花が咲き誇り、続いて柳の新芽が、梅雨にはアジサイ、夏には鯉の大和3色、メリーゴーランドのように様々な色に染められた季節が巡っていきます。エンタシスの柱がそびえるハイカラな美術館、歴史に置いてけぼりをくったようなお屋敷、蔦絡む小粋なカフェや料亭風レストラン、なまこ壁の土蔵、堀割の舟までも、そんな風景に溶け込んでいます。まるで箱庭のように、美しく整備されていて、古いものと新しいものが、東洋と西洋が、微妙なバランスを保ちながら、ある意味完成されていて、備中にあって、いわば『天領の看板』とでも云うべき観光地です。

大原美術館

お屋敷

カフェ

なまこ壁の土蔵

堀割の舟
10ヶ月ぶりに家内と訪れた早春の倉敷で、そんな定番だけでなく、裏通りを散策してみました。結婚式を終えたばかりで、披露宴に向かう新郎新婦を乗せた人力車や、そんな2人を祝福する礼装の人々をやり過ごしながら、柳が芽吹く前の枯れた美観地区の路地に迷い込んでみると、間口の狭いマッチ箱のようなお店が両側にトランプカードのように並んでいます。裏通りは整理されていないおもちゃ箱のようです。備前焼のお茶碗のお店、駄菓子屋さん、雑貨屋さん、コロッケのお店、小物屋さん、あまり似つかわしくないお店、異国のお皿を売るお店などが、小銭は使うが基本的に財布の紐の固い旅人の訪問を待っているのです。

枯れた美観地区

裏通り

備前焼のお店

かまぼこ屋さん
そんな路地を抜けて坂道と石段を登ると、倉敷の町並みを望む小高い丘の上に、こぢんまりとしていながら、どことなく品格のある、神楽殿(後に調べてみたところ、実際は「能舞台」でした。)もあって、出雲大社に似た太い注連縄のある神社に辿り着きました。それが阿智神社です。ウイキペディアによると、応神天皇の時代の百済系渡来人の一族が造った庭園が元になったと云われています。

阿智神社参道前通り

阿智神社参道

阿智神社山門と本殿

能舞台
阿智神社は、『倉敷の総鎮守。倉敷市中心部、倉敷美観地区の北にある鶴形山と呼ばれる小高い山の上に鎮座している。古代、「亀島」「鶴形島」などと呼ばれていた現在地に住み着いた阿知使主の一族が作った庭園が元となったといわれている。 かつて岡山平野は吉備の穴海と呼ばれる海域で、当時は窪屋郡阿智郷であった現在の倉敷市鶴形山周辺は交通の要衝であったといわれ、そのため海上交通の守護神である宗像三女神(むなかたさんじょじん)を祀ったと考えられている。』(ウイキペディアより)
『倉敷』と云えば、あまり滞在時間がない場合、いわゆる『美観地区』に誘われてしまいがちです。そこは、早春には梅の花が、桜花が咲き誇り、続いて柳の新芽が、梅雨にはアジサイ、夏には鯉の大和3色、メリーゴーランドのように様々な色に染められた季節が巡っていきます。エンタシスの柱がそびえるハイカラな美術館、歴史に置いてけぼりをくったようなお屋敷、蔦絡む小粋なカフェや料亭風レストラン、なまこ壁の土蔵、堀割の舟までも、そんな風景に溶け込んでいます。まるで箱庭のように、美しく整備されていて、古いものと新しいものが、東洋と西洋が、微妙なバランスを保ちながら、ある意味完成されていて、備中にあって、いわば『天領の看板』とでも云うべき観光地です。

大原美術館

お屋敷

カフェ

なまこ壁の土蔵

堀割の舟
10ヶ月ぶりに家内と訪れた早春の倉敷で、そんな定番だけでなく、裏通りを散策してみました。結婚式を終えたばかりで、披露宴に向かう新郎新婦を乗せた人力車や、そんな2人を祝福する礼装の人々をやり過ごしながら、柳が芽吹く前の枯れた美観地区の路地に迷い込んでみると、間口の狭いマッチ箱のようなお店が両側にトランプカードのように並んでいます。裏通りは整理されていないおもちゃ箱のようです。備前焼のお茶碗のお店、駄菓子屋さん、雑貨屋さん、コロッケのお店、小物屋さん、あまり似つかわしくないお店、異国のお皿を売るお店などが、小銭は使うが基本的に財布の紐の固い旅人の訪問を待っているのです。

枯れた美観地区

裏通り

備前焼のお店

かまぼこ屋さん
そんな路地を抜けて坂道と石段を登ると、倉敷の町並みを望む小高い丘の上に、こぢんまりとしていながら、どことなく品格のある、神楽殿(後に調べてみたところ、実際は「能舞台」でした。)もあって、出雲大社に似た太い注連縄のある神社に辿り着きました。それが阿智神社です。ウイキペディアによると、応神天皇の時代の百済系渡来人の一族が造った庭園が元になったと云われています。

阿智神社参道前通り

阿智神社参道

阿智神社山門と本殿

能舞台
阿智神社は、『倉敷の総鎮守。倉敷市中心部、倉敷美観地区の北にある鶴形山と呼ばれる小高い山の上に鎮座している。古代、「亀島」「鶴形島」などと呼ばれていた現在地に住み着いた阿知使主の一族が作った庭園が元となったといわれている。 かつて岡山平野は吉備の穴海と呼ばれる海域で、当時は窪屋郡阿智郷であった現在の倉敷市鶴形山周辺は交通の要衝であったといわれ、そのため海上交通の守護神である宗像三女神(むなかたさんじょじん)を祀ったと考えられている。』(ウイキペディアより)
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坂のまち尾道(その3)
平成23年3月19日(土)
尾道は、坂のまちです。そして、古民家を利用した、趣のあるお店が坂道のそこかしこに点在しています。

路地の坂道

茶店

銀猫堂
坂道の途中に、「平山郁夫」画伯のスケッチ・ポイントがありました。東海道五十三次をもじって「しまなみ海道五十三次」スケッチポイントと呼んでいます。実際の風景と比べてみてください。「平山郁夫」画伯の日本画、大好きです。特にシルクロードを描いた、法隆寺の壁画、いいですね。そう言えば、若い頃は、「東山魁夷」画伯の日本画が好きでしたが、どこか似通ったところがあります。そう思いませんか?

平山郁夫画伯のスケッチ

実際の風景
さて、お寺が多いというのも、尾道を語る上で欠かせない要素かと思います。山陽本線の山側のごく狭いエリアに25ものお寺が密集しています。何故そんなにお寺が多いのかについては、以下のサイトをご覧くださいませ。
尾道トラベルガイド

天寧寺山門
商店街の入り口に「林芙美子」の銅像がありました。放浪記の一節が銅像の説明書き(石板)に書いてありました。また、歩道を挟んだ反対側の伊豫銀行の窓ガラスに、芙美子の写真や、放浪記の中でお釈迦様を恋い偲ぶ詩(毛筆)が張り出してありました。最後に芙美子と書いてありました。本人が書いたのでしょうか。とても達筆だなあと感じ入りました。

芙美子銅像

説明書き

お釈迦様の詩
尾道水道に沿って走る商店街と海辺の道を結ぶ小路が何本もあります。その小路を春風が吹き抜けます。観光客はそれを縫って歩いて目的のお店の前に並びます。前回は、ウイーク・デイに訪れたので観光客は少なかったのですが、この日は3連休の初日ということもあって、尾道ラーメンの有名店は、あっちこっちで行列ができていました。そして、この日は、「廻船酒蔵ベッチャーの胃袋」というお店で尾道ラーメンを食しました。ちまき風のおにぎりと・・。因みに「ベッチャー」(べた)とは、祭礼で使用される歌舞伎の鬼面の名前だそうですが、家内曰く、「あんた、そっくりやん!」。(悲)

小路

ベッチャーの胃袋

尾道ラーメンとちまき
尾道市役所前の「おのみち映画資料館」を覗いてみました。館内では小津安二郎の「東京物語」の予告編が上映されていました。また、尾道ロケ映画の写真、フーテンの寅さんや昭和初期の映画のポスターが多数展示されていました。私も見たことのないものがありました。往年のスター女優(倍賞智恵子が多い)や男優の写真もあって、なんとなく懐かしい気持ちになりました。

おのみち映画資料館(全景)

資料館入口

資料館内部

映画ポスター
尾道は、坂のまちです。そして、古民家を利用した、趣のあるお店が坂道のそこかしこに点在しています。

路地の坂道

茶店

銀猫堂
坂道の途中に、「平山郁夫」画伯のスケッチ・ポイントがありました。東海道五十三次をもじって「しまなみ海道五十三次」スケッチポイントと呼んでいます。実際の風景と比べてみてください。「平山郁夫」画伯の日本画、大好きです。特にシルクロードを描いた、法隆寺の壁画、いいですね。そう言えば、若い頃は、「東山魁夷」画伯の日本画が好きでしたが、どこか似通ったところがあります。そう思いませんか?

平山郁夫画伯のスケッチ

実際の風景
さて、お寺が多いというのも、尾道を語る上で欠かせない要素かと思います。山陽本線の山側のごく狭いエリアに25ものお寺が密集しています。何故そんなにお寺が多いのかについては、以下のサイトをご覧くださいませ。
尾道トラベルガイド

天寧寺山門
商店街の入り口に「林芙美子」の銅像がありました。放浪記の一節が銅像の説明書き(石板)に書いてありました。また、歩道を挟んだ反対側の伊豫銀行の窓ガラスに、芙美子の写真や、放浪記の中でお釈迦様を恋い偲ぶ詩(毛筆)が張り出してありました。最後に芙美子と書いてありました。本人が書いたのでしょうか。とても達筆だなあと感じ入りました。

芙美子銅像

説明書き

お釈迦様の詩
尾道水道に沿って走る商店街と海辺の道を結ぶ小路が何本もあります。その小路を春風が吹き抜けます。観光客はそれを縫って歩いて目的のお店の前に並びます。前回は、ウイーク・デイに訪れたので観光客は少なかったのですが、この日は3連休の初日ということもあって、尾道ラーメンの有名店は、あっちこっちで行列ができていました。そして、この日は、「廻船酒蔵ベッチャーの胃袋」というお店で尾道ラーメンを食しました。ちまき風のおにぎりと・・。因みに「ベッチャー」(べた)とは、祭礼で使用される歌舞伎の鬼面の名前だそうですが、家内曰く、「あんた、そっくりやん!」。(悲)

小路

ベッチャーの胃袋

尾道ラーメンとちまき
尾道市役所前の「おのみち映画資料館」を覗いてみました。館内では小津安二郎の「東京物語」の予告編が上映されていました。また、尾道ロケ映画の写真、フーテンの寅さんや昭和初期の映画のポスターが多数展示されていました。私も見たことのないものがありました。往年のスター女優(倍賞智恵子が多い)や男優の写真もあって、なんとなく懐かしい気持ちになりました。

おのみち映画資料館(全景)

資料館入口

資料館内部

映画ポスター
にし阿波観光圏散策(弾丸)ツアー
平成23年2月25日(金)~26日(土)
にし阿波観光圏エリアを駆け足で散策してきました。
午前中は、藤川谷(前掲)で妖怪散歩。
平家の子孫「阿佐家」の茅葺きをトタンで覆った家屋。大きい。齢90を越える孤老が家を守っているそうです。大変だ~。元は武家のお姫様だったそうで、籠に乗って嫁いできたそうです。そう言えばどことなく上品さが漂っていましたね。

阿佐家
お昼ご飯は、「平家弁当」。祖谷地方の伝統的家庭料理を再現しています。写真には写っていませんが、そば米雑炊も付いて、思ったより満腹。見た目通りのヘルシーメニューです。ヽ(;´Д`)ノ

平家弁当
まずは、東祖谷の「落合集落」(重伝建)。国道第439号線(通称よさく街道)からの高低差300余mの壮大な風景にうっとり。周囲の山々は1,000mを越えています。平家の落人達は、写真左奥の落合峠を越えて祖谷地方に落ちのびてきました。学校で習った歴史とは少し異なりますが、まだ幼い安徳天皇も同行されたのだそうです。その安徳天皇は、大規模な土石流に飲み込まれて、幼い命を失ったと語られます。祖谷地方には平家にまつわる伝説や史跡等が多く遺されています。

落合集落
この地方には、なな、なんと「ユダヤ伝説」というものもあります。ノアの箱船が剣山(日本百名山)に漂着したとか。出エジプト記のモーゼ御一行様が室戸岬から四国に入り剣山を経て奈良に入り、ついには日本人の祖先になったとか・・・。天皇家の紋章とユダヤの紋章が酷似しているのがその証拠なのだそうです。想像力もここまでくると、いやはや(汗)。
辺りの冷い空気の中、旅人とおぼしき夫婦連れが仲良く並んで見物していました。辺りはまだ雪景色です。声を掛けましたが恥ずかしがって答えてくれませんでした。

旅人
夕食は、「こなき(妖怪)どん」。玉子は目玉親父。では、揚げ豆腐はぬり壁かな。猪豚の肉が御飯の上に乗っかっていました。鍋は祖谷地方の定番「そば米汁」。ご当地でしか買えない「妖怪茶」。あはは。

こなき(妖怪)どん
翌日は、まず加茂の大クス(楠)を見た後、貞光町の「2層うだつの町並み」を散策。『うだつ』は、要するに防火壁です。通常は1層ですが、建築技術が高度になって2階立て建築が可能となった時期(江戸末期)には2層となったのだそうです。同じ徳島県でも脇町のうだつは1層ですね。

加茂の大クス

説明

2層うだつの町並み(電柱の地中化すれば良いのにね)

庄屋屋敷
ガイドさんに尋ねましたが、うだつは徳島県に特有のものではありません。中山道や北国街道、兵庫県の和田山や豊岡にも遺されているそうです。でも、山陽道にはあまり見かけないとのことでした。そう言えば、岡山県は倉敷市の土蔵の町並みに『うだつ』はありません。ふ~む。成る程。

倉敷の町並み(ご参考)
お昼御飯は、「箸蔵寺」で精進料理。お酒1本付き。ここの境内からは、遠く剣山も望めます。

箸蔵寺山門

社殿

精進料理
社務所の扉やお堂のここかしこに、彫り物が施されています。「獏」、「虎」、「竜」、「象」、「鯉」とか、数え切れないくらいです。「アニマル・ミステリー・ツアー」と呼んでいました。往年のビートルズ「Magical Mystery Tour」をもじっているのでしょうか。(うまい!なんちゃって)ここでは、我が家のヨーキー(ぽんちゃん)にそっくりの狛犬らしきものを写真に納めてきました。どうです!よく似ているでしょう。(*'-')v

瓦の狛犬

うちのポンちゃん
似ていると思った方は、拍手をぽちっとお願いします。そうでない方もそれなりに・・・_(._.)_
にし阿波観光圏エリアを駆け足で散策してきました。
午前中は、藤川谷(前掲)で妖怪散歩。
平家の子孫「阿佐家」の茅葺きをトタンで覆った家屋。大きい。齢90を越える孤老が家を守っているそうです。大変だ~。元は武家のお姫様だったそうで、籠に乗って嫁いできたそうです。そう言えばどことなく上品さが漂っていましたね。

阿佐家
お昼ご飯は、「平家弁当」。祖谷地方の伝統的家庭料理を再現しています。写真には写っていませんが、そば米雑炊も付いて、思ったより満腹。見た目通りのヘルシーメニューです。ヽ(;´Д`)ノ

平家弁当
まずは、東祖谷の「落合集落」(重伝建)。国道第439号線(通称よさく街道)からの高低差300余mの壮大な風景にうっとり。周囲の山々は1,000mを越えています。平家の落人達は、写真左奥の落合峠を越えて祖谷地方に落ちのびてきました。学校で習った歴史とは少し異なりますが、まだ幼い安徳天皇も同行されたのだそうです。その安徳天皇は、大規模な土石流に飲み込まれて、幼い命を失ったと語られます。祖谷地方には平家にまつわる伝説や史跡等が多く遺されています。

落合集落
この地方には、なな、なんと「ユダヤ伝説」というものもあります。ノアの箱船が剣山(日本百名山)に漂着したとか。出エジプト記のモーゼ御一行様が室戸岬から四国に入り剣山を経て奈良に入り、ついには日本人の祖先になったとか・・・。天皇家の紋章とユダヤの紋章が酷似しているのがその証拠なのだそうです。想像力もここまでくると、いやはや(汗)。
辺りの冷い空気の中、旅人とおぼしき夫婦連れが仲良く並んで見物していました。辺りはまだ雪景色です。声を掛けましたが恥ずかしがって答えてくれませんでした。

旅人
夕食は、「こなき(妖怪)どん」。玉子は目玉親父。では、揚げ豆腐はぬり壁かな。猪豚の肉が御飯の上に乗っかっていました。鍋は祖谷地方の定番「そば米汁」。ご当地でしか買えない「妖怪茶」。あはは。

こなき(妖怪)どん
翌日は、まず加茂の大クス(楠)を見た後、貞光町の「2層うだつの町並み」を散策。『うだつ』は、要するに防火壁です。通常は1層ですが、建築技術が高度になって2階立て建築が可能となった時期(江戸末期)には2層となったのだそうです。同じ徳島県でも脇町のうだつは1層ですね。

加茂の大クス

説明

2層うだつの町並み(電柱の地中化すれば良いのにね)

庄屋屋敷
ガイドさんに尋ねましたが、うだつは徳島県に特有のものではありません。中山道や北国街道、兵庫県の和田山や豊岡にも遺されているそうです。でも、山陽道にはあまり見かけないとのことでした。そう言えば、岡山県は倉敷市の土蔵の町並みに『うだつ』はありません。ふ~む。成る程。

倉敷の町並み(ご参考)
お昼御飯は、「箸蔵寺」で精進料理。お酒1本付き。ここの境内からは、遠く剣山も望めます。

箸蔵寺山門

社殿

精進料理
社務所の扉やお堂のここかしこに、彫り物が施されています。「獏」、「虎」、「竜」、「象」、「鯉」とか、数え切れないくらいです。「アニマル・ミステリー・ツアー」と呼んでいました。往年のビートルズ「Magical Mystery Tour」をもじっているのでしょうか。(うまい!なんちゃって)ここでは、我が家のヨーキー(ぽんちゃん)にそっくりの狛犬らしきものを写真に納めてきました。どうです!よく似ているでしょう。(*'-')v

瓦の狛犬

うちのポンちゃん
似ていると思った方は、拍手をぽちっとお願いします。そうでない方もそれなりに・・・_(._.)_
藤川谷の妖怪達
平成23年2月25日(金)
国道32号線は、香川県高松市と高知県高知市を結び、徳島県内では、日本三大暴れ川の一つであり、四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ「吉野川」を挟んでJR四国の土讃線に沿って走る一般国道です。その区間の丁度中ほどにある峡谷の湯宿「大歩危峡まんなか」の脇に藤川谷という“昼なお暗い”峡谷があります。ここは、何を隠そう妖怪の巣窟であり、彼の有名な子泣(啼)き爺の伝説発祥の地なのです。

「大歩危峡まんなか」(赤い鉄橋は国道32号線、手前の道を左に進むと藤川谷)

藤川谷妖怪マップ

妖怪マップ
ウイキペディアによると、子泣き(啼き)爺は、『民俗学者・柳田國男の著書『妖怪談義』に記述のある妖怪の一つで、・・(中略)・・「民間伝承の会」(現・日本民俗学会)の機関誌『民間伝承』第4巻第2号に寄せられた論文「山村語彙」には三好郡三名村字平(現・三好市)の口承として「子供の泣声を真似る怪」と記述されているのみである。』とあります。
さて、藤川谷で出る(と云い伝えられた)妖怪達のほんの一例をご紹介しましょう。

野鹿の池の竜神と化身の乙娘


歩危(ほけ)の山爺


川赤子


蜘蛛取り淵の一つ目入道


どろめき淵のエンコ

最後の写真は、「藤娘」です。なかなか端正な顔つきでしょう。でもね、設置された当初は実は「のっぺらぼう」だったのです。ところが、地元の女性達が、夜、藤娘のそばを通るのがとても怖いと云うので、後から顔を書き足したという曰く付きの彫像なのです。そう云われて見れば、今にも動き出しそうでしょう。少なくとも私は怖くて夜は通れませんね~。((((゜Д゜;))))

藤娘
因みにウイキペディアによると『藤娘』とは、歌舞伎舞踊で『1937年(昭和12年)に六代目尾上菊五郎が、五変化舞踊のひとつだった藤娘を独立させ、長唄の間に「藤音頭」(岡鬼太郎作)を挿入し、舞台演出を一新して上演したもの。藤の絡んだ松の大木は、松が男を、藤が女を象徴している。(粗)筋は、藤の絡んだ松の大木の前に藤の枝を手にした藤の精が、意のままにならない男心を切々と嘆きつつ踊る。やがて酒に酔い興にのって踊るうちに遠寺の鐘が鳴り夕暮れを告げると、娘も夕暮れとともに姿を消す、というもの。』
国道32号線は、香川県高松市と高知県高知市を結び、徳島県内では、日本三大暴れ川の一つであり、四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ「吉野川」を挟んでJR四国の土讃線に沿って走る一般国道です。その区間の丁度中ほどにある峡谷の湯宿「大歩危峡まんなか」の脇に藤川谷という“昼なお暗い”峡谷があります。ここは、何を隠そう妖怪の巣窟であり、彼の有名な子泣(啼)き爺の伝説発祥の地なのです。

「大歩危峡まんなか」(赤い鉄橋は国道32号線、手前の道を左に進むと藤川谷)

藤川谷妖怪マップ

妖怪マップ
ウイキペディアによると、子泣き(啼き)爺は、『民俗学者・柳田國男の著書『妖怪談義』に記述のある妖怪の一つで、・・(中略)・・「民間伝承の会」(現・日本民俗学会)の機関誌『民間伝承』第4巻第2号に寄せられた論文「山村語彙」には三好郡三名村字平(現・三好市)の口承として「子供の泣声を真似る怪」と記述されているのみである。』とあります。
さて、藤川谷で出る(と云い伝えられた)妖怪達のほんの一例をご紹介しましょう。

野鹿の池の竜神と化身の乙娘


歩危(ほけ)の山爺


川赤子


蜘蛛取り淵の一つ目入道


どろめき淵のエンコ

最後の写真は、「藤娘」です。なかなか端正な顔つきでしょう。でもね、設置された当初は実は「のっぺらぼう」だったのです。ところが、地元の女性達が、夜、藤娘のそばを通るのがとても怖いと云うので、後から顔を書き足したという曰く付きの彫像なのです。そう云われて見れば、今にも動き出しそうでしょう。少なくとも私は怖くて夜は通れませんね~。((((゜Д゜;))))

藤娘
因みにウイキペディアによると『藤娘』とは、歌舞伎舞踊で『1937年(昭和12年)に六代目尾上菊五郎が、五変化舞踊のひとつだった藤娘を独立させ、長唄の間に「藤音頭」(岡鬼太郎作)を挿入し、舞台演出を一新して上演したもの。藤の絡んだ松の大木は、松が男を、藤が女を象徴している。(粗)筋は、藤の絡んだ松の大木の前に藤の枝を手にした藤の精が、意のままにならない男心を切々と嘆きつつ踊る。やがて酒に酔い興にのって踊るうちに遠寺の鐘が鳴り夕暮れを告げると、娘も夕暮れとともに姿を消す、というもの。』