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四国霊場第72番札所「曼荼羅寺」にて(逆打ち その16)

平成23年10月22日(土)
 お遍路(四国八十八箇所)の記事を書くのは、随分、久しぶりです。

IMG_3114.jpg
曼荼羅寺のしおり

曼荼羅寺境内から山門を望む
曼荼羅寺境内から山門を望む(お遍路さんの姿がちらほら)

 さて、何でもない言葉が人の人生を大きく変えてしまうことがあります。北面武士で歌人であった佐藤義清(のりきよ)は、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子との道ならぬ恋に悩んだ末、出家してしまいます。たった一夜の逢瀬で「あこぎ」と云われたことがきっかけと語り継がれているようです。「あこぎ」の原義は「図々しい」とか「あつかましい」というほどの意味のようですが、恋い焦がれる女院からの一言は義清の心を壊してしまったのかもしれません。出家した義清は「西行」と号し、後に因縁浅からぬ崇徳上皇(璋子の子)を偲んで四国に渡ってきます。仁安3年(1168年)のことと云われています。

手水屋と本堂
手水屋と本堂

鐘楼
鐘楼

大師堂
大師堂

 その西行は現在の善通寺市辺りにしばらく庵を結び滞在したと云われていて、「曼荼羅寺」の本堂前には、「西行の昼寝石」といい伝えられる石が残されているそうです。実は筆者はそんなこととはつゆ知らず、スルーしてしまって確証を得ていません。写真に石らしきものが写っていますので掲載します。またいつか機会があったら確認して報告しますよ。

本堂
本堂(手前人物の向こう側にさりげなく、寝っころがるにはよさそうな「石」が見えます)

※北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。(ウィキペディアより)
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四国霊場第73番札所「出釈迦寺」にて(逆打ち その15)

平成23年10月22日(土)
 札所が麓に降りてくるということもあるのかなあ。それはそれで便利ではあるけれど、一方では御利益は薄くなるような気もします。

出釈迦寺奥ノ院を望む
出釈迦寺の納経所脇から奥ノ院を望む

ウィキペディアの記述によると『寺伝によれば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」と名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。
 約300年前までは山頂が札所になっていたが、1920年(大正9年)に麓に移された。』とあります。

我拝師山出釈迦寺山門
山門
山門と手水舎
山門と手水舎
本堂
本堂
大師堂
大師堂

弘法大師の超人的な逸話はいたるところに残されていますが、この「捨身ヶ嶽禅定」は仏門に入る契機となる逸話です。その真偽について興味はありませんが、奥ノ院に登って大師の足跡をたどるのも良いかなと思います。

捨身ヶ嶽禅定
捨身ヶ岳禅定(解説)

捨身ヶ岳から眺めた讃岐平野は、大師の目にどのように映ったのでしょうか。そこには今もあまり大きな建物もなく、まだ、緑豊かな田園が残る風景があります。

大師が望む讃岐平野
出釈迦寺山門前から讃岐平野を望む(霞の向こうは瀬戸内海)

四国霊場第74番札所「甲山寺」にて(逆打ち その14)

平成23年10月22日(土)
 今年の7月17日(土)に四国霊場第74番札所の「甲山寺」にお参りしました。それから3か月以上過ぎた先週の土曜日、この日は第73番「出釈迦寺」、第72番「曼荼羅寺」を訪ねてみようと家を出たのですが、思うところがあって、まずは香川県仲多度郡満濃町にある日本最大の灌漑用ため池「満濃池」を訪れました。

満濃池
日本一のため池「満濃池」(陰鬱でしょう?)

 この日は空から灰色の雲が低くたれこみ霧のような雨が下草を濡らす生憎の空模様で、湖水も陰鬱な青みがかった灰色で寂しく感じるような風景でした。

満濃池の略史
満濃池略史(読めるかな?虫眼鏡なら・・)

 家族もいっしょだったので、そこから逃げ出すようなことはなかったのですが、池のほとりに「何かが佇んでいそう」な雰囲気でしたね。満濃池といえば、讃岐平野では、唯一の1級河川である土器川の水を灌漑用に集めるために築かれたため池で、古くは律令の時代から近代まで築堤と決壊の歴史を繰り返しており、その過程でおそらくは多くの人々が犠牲になっているのではないかと想像できます。夏暑く少雨で、河川の少ない讃岐平野には灌漑用のため池が数多くあり、一説では14,000ともいわれています。そして、ため池づくりには「人柱(ひとばしら)」の伝説が残されている池もあるのです。以下のページをご覧ください。

「いわざらこざら」伝説

 話は少し脱線しかかっていますが、甲山寺と満濃池の関係について語ろうと思って書き始めた今回の記事の要点は、築池別当として讃岐の国に使わされた弘法大師空海が僅か3か月(諸説あり)で堤を修復し、その功績によりご褒美(?)として貰ったお金で甲山寺を創建したということなのです。下の版画しおりでもわかるように、小さな川沿いのこじんまりとした佇まいのお寺でした。

甲山寺しおり
甲山寺の版画しおり
甲山寺山門
甲山寺山門
境内(右手は手水舎)
境内(右手は手水舎)
甲山寺本堂
本堂
鐘楼
鐘楼

四国霊場第75番札所「善通寺」にて(逆打ち その13)

平成23年7月19日(火)
 大雨をもたらす、とんでもない台風が通過中です。雨戸がガタ・ガタ・カン・カンと悲鳴をあげています。今晩は、高潮にも細心の注意が必要です。といって、家を担いで逃げることもできない訳ですが((((゜Д゜;))))。

釈迦堂と五重塔
善通寺(釈迦堂と五重塔)

 7月になって、何かと忙しくて、ブログの更新もままなりません。気が付くとスポンサーの広告もなくなっています。まあ、別にお金をくれる訳でもないので、どうでも良いと云えばそうなのかもですが、広告を貼り付けるほどの魅力も無いのかと悲しくもあり、また何となく励みもないなあと思う今日この頃です。

山門
善通寺南大門(奥に見えるのは金堂)

 そろそろ逆打ちの遍路旅の続きも書かねばと思う私と、一方でどこか魅力のある旅先はないかとインターネットしている私がいます。京都の旅も、本当は昨夏に訪れた東・西「本願寺」や「二条城」の記事も書かねばと、つのる焦燥感に苛まれること暫しです。
2011_7_17善通寺
善通寺

 最近、思うことがあります。それは旅にも賞味期限があるのではないかということです。時間を経るにつれて、対象への興味が薄らいでいくために、記事が書けなくなります。(『あ~た。それは記憶力の問題じゃね?』確かに。うーん納得。)
 さて、西暦774年、讃岐国多度郡(たどのごおり)五岳山屏風浦(びょうぶがうら)というところに1人の子が産まれました。この子が後に真言宗の開祖にして、三筆と呼ばれる書の天才、弘法大師「空海」となります。そして、その子の父の名からとった『善通寺』と呼ばれる誠に壮大な伽藍のお寺が此の地に出現したのです。

善通寺しおり
善通寺しおり

 話は突然に飛びますが、有名3怨霊の2人までが、讃岐の国に縁があるというのは偶然?白峰御陵の崇徳上皇は讃岐に遠流され、太宰府に流された菅原道真は若い頃に讃岐国に役人として赴任しています。そして、空海は讃岐国で誕生しています。何かの縁(えにし)を感じませんか。今風に云えば、讃岐国はパワースポットなのかもですね。(お馬鹿ね~島流しされるくらい“ど田舎”ってことじゃん(悲)。)

 善通寺は、下の図面でも判るように、四国霊場の中でも抜き出た規模を誇ります。殊に登録有形文化財の五重塔は、真言宗の総本山である京都の「東寺」のそれと比較しても見劣りしませんよ。いずれも空海に縁があるという点でも共通しています。善通寺には他にも登録有形文化財に指定されてる建物が沢山あります。金堂(本堂)、釈迦堂、中門等々、そういう観点でお寺を観るのも良いかもです。

善通寺概観図
善通寺概観図
善通寺
善通寺赤門(東門)と五重塔
金堂
金堂(本堂)
中門と御影堂を結ぶ屋根付き通路
中門と御影堂を結ぶ屋根付き通路

 善通寺の境内で、寛政10年(西暦1798年)に建てられた石碑を見つけました。空海没後963年。既に四国八十八箇所霊場という巡拝行程が成立していたことが偲ばれます。この時代に活躍した日本人には、日本地図作製に貢献した伊能忠敬、間宮林蔵とか、芸術の分野で世界的に有名な喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川(安藤)広重、ご存じ遠山の金さん(金四郎)、江戸3大改革で名高い松平定信、水野忠邦など超有名人がいますね。香川県的に云えば、平賀源内とか柴野栗山を挙げるべきでしょうが、私はよく知らないので、興味ある方はHPで検索してね。

寛政10年の石碑
寛政10年の石碑

四国霊場第77番札所『道隆寺』にて(逆打ち その11)

平成23年5月1日(日)
 ウイキペディアによれば、『天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、当地の領主である和気道隆が乳母を誤って射殺してしまったため、これを悲しんで桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。』と書かれてありました。
道隆寺山門
道隆寺山門

 また、他の資料を読んでみると、この桑の木が夜になると怪光を放っていたのだそうです。何故、乳母がそんなところにいたのか。矢を放つより、先に切り倒せばよかったのではとか、今となっては解らないこともありますが、そんなこんなで、このお寺はできたのだそうです。
道隆寺鐘楼
道隆寺鐘楼

 後に弘法大師が立ち寄って、薬師如来像を彫り、その胎内に先ほどの薬師如来を安置したことから、二体薬師如来と呼ばれているのだそうです。
道隆寺本堂
道隆寺本堂

 ところで、以前、御利益のお話をしましたが、このお寺の御利益は、ご本尊が薬師如来ということもあって、眼病又は眼病の予防に特に効くとされています。
道隆寺大師堂
道隆寺大師堂
道隆寺多宝塔
道隆寺多宝塔

 ところで、道隆寺のある香川県の西部に位置する多度津(町)は、名前に『津』とあるとおり港で栄えた町でした。ウエブで探していたら、『多度津町立資料館』というHPを見つけました。そこで紹介されている『金比羅参詣名所図絵』(1847年)には、道隆寺が描かれています。その当時から四国霊場は名所だったのですね。
道隆寺しおり
道隆寺しおり

多度津町立資料館(を紹介するHPだそうです。)
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